生活のために働かざるを得ない状況はある意味幸せだ。
生きる意味などという、余計なことを考えなくていい。
経済的にある程度余裕が出てくると、生活のために働く状況ではなくなる。
すると、色々なことを考え始める。
自分は何のために働くのだろう。
何のために生きるのだろうか、と。
人間は暇になると、将来への不安や生きる意味などを考えてしまう生き物なのだろう。
そして、そんな悩みは不安ばかりを大きくし、幸せに近づくことはない。
では、どうすれば人は幸せになれるのだろう。
結論から言えば、幸せだと自分自身が信じられれば、それが幸せなのだ。
ではどういう状況ならば、そう信じられるのだろうか。
まず、「自分にとっての幸せ」と信じられる状況を、自分で決める必要がある。
釣り好きなら、釣りをしていれば幸せ。
登山が好きならば、登山をしていれば幸せ。
このように、幸せな状態は、人によって様々。
そんな時、宗教に意味があると気づく。
宗教ごとに、幸福の在り方とそのためにするべきことが定義されている。
つまり、宗教は幸せの正解を用意してくれている。
だから、もし自分が心から信じられそうな宗教を見つけられたならば、幸せだ。
その宗教の教義に従い行動すれば、自分が幸せだと実感できるのだから。
もし自分に合った宗教が見つからないなら、どうすればいいだろう。
その時は、自分で宗教を作るのもいい。
一から作るので手間と時間はかかる。
それでも、自分にとっての幸せな状態とそのために取るべき行動を教義として定めることができれば、あとは行動するだけで幸せになれる。
では、私自身にとっての幸せとは何だろう。
もしかしたら、バスの運転だろうか。
バス運転教、それも悪くないかもしれない。
バスを運転することこそが幸福。
もし心の底からそう信じられれば、私が今進んでいる道は幸福への一本道だ。
バス運転教の教祖になってみようか。